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古戦場めぐり「会津戦争・小峠の戦い(福島県福島市)」

古戦場めぐり「会津戦争・小峠の戦い(福島県福島市)」

◎『会津戦争・小峠の戦い』

幕末当時、会津藩は苦境にありました。新政府は、仙台藩米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に、お目付け役となる奥羽鎮撫総督府を置いていました。仙台藩米沢藩会津藩に同情的で、両藩による会津救済嘆願を慶応4年(1868)4月12日、九条道孝総督に手渡しています。しかし、長州藩士・世良修蔵下参謀ら、総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢を崩しません。東北の諸藩は、薩長の軍門に下り会津征伐に向かうか、もしくは奥羽越列藩同盟の名において薩長に宣戦布告するか、いずれかを選択しなければならない状況に追い込まれてしまいました。仙台藩は、やむなく会津藩境に出兵します。その一触即発の様子を綴った手記が残っています。次が、仙台藩大番・士佐藤信の遺稿『戊辰紀事』の参戦した兵士の大隊長瀬上主膳隊・大槻定之丞の証言です。

?敵陣の横向大峠と味方小峠の距離およそ二丁に過ぎず。樹木を楯とし一番小隊橋本隊進撃し、敵間わずかに三、四十間、大峠下まで進み、隊長瀬上抜刀、衆兵を指揮し、敵は大峠より拳下りに連発雨のごとし。我が兵登るあたわず、続いて三、四の手進む。この時、敵味方大砲発射。砲撃大雷のごとし。この戦、味方一名傷つく、大木を楯とするをもって死傷少なし。軍監の陣笠は内金、外銀をもって目標となすの軍法なり。時に陣笠夕日に輝き、敵の銃丸雨のごとし。故に笠を脱して見れば、二カ所の銃傷あり。敵は大峠関門より東西峯伝いに銃兵をして、乱発せしむ。?

大義なき戦いでいかに不戦を望んでいるとはいえ、前線はまさに緊迫した状態にありました。このままでは、本格的な戦争に突入してしまいます。前線にある武将とて、その思いは同じです。会津救済嘆願提出前の同じ頃、仙台藩に所属する伊具郡小斎領主・佐藤宮内は、猪苗代湖の南、須賀川に陣を進めていました。そこで偶然にも会津藩士と接触し、打開する道を探っています。

?小斎領主、大隊長の佐藤宮内は須賀川の大和屋に宿陣していた。佐藤はじっとしている事が嫌いだった。敵情視察のために二人を連れて勢至堂口の長沼付近まででかけた。長沼の茶店に入って休憩していると、奥座敷に侍が三人、話し合っているのが見えた。茶店の亭主に「どちらのご家中か」と聞くと、「水戸様のご家中です」という。「ではぜひ、お目にかかりたい。拙者はこれから会津へでたいので案内してくれるよう取り次いでくれ」と亭主にいうと、侍が引き受けてくれた。話し合ってみると、なんと会津藩士だった。この辺りは水戸の領地なので、水戸藩を名乗ったのだった。佐藤が身分を明かすと、三人の侍は勢至堂口の関門まで案内してくれた。そこに、会津藩隊長の木村熊之進がいた。佐藤が、「仙台藩は朝命によってやむなく進攻したが、会津と戦って無駄な血を流す事は考えていない。会津が一日も早く謝罪降伏してもらいたい」 というと、木村は「同感だ」と答えた。そして、「いっその事、世良修蔵を討ち取ることもやぶさかにはあらず」といった。佐藤も同感でした。誰もが戦争を望んではいない、戦争を望んでいるのは薩摩と長州だけ。この日はこれで別\xA4

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仙台藩としては、会津を憎むべき理由などみじんもありません。やりたくない戦争に、行かなければならない仙台藩兵の気持ちは、いかなるものであったことでしょう。慶応4年(1868)4月17日の仙台藩の記録には、仙台藩主が激励のために直接に桑折まで出向いてきたことが記録されていて、「慶邦、桑折迄出張、諸隊長ヲ招、自令シテ云、賊境ヘ繰込速ニ討入、尽力可抽戦功(略)一泊、翌18日白石本陣ヘ帰陣」とあります。

4月20日、新政府軍たる奥州鎮撫総督府に、強引に督促された仙台藩の瀬上主膳率いる藩兵800を主力とし、筑州藩50を加えた850が、会津を討つべく福島から現在の国道115号線を土湯温泉にむかい、土湯の太子堂横の山道を登って会津街道の「小峠」の六合坂付近に布陣し、鬼面山北の「大峠」付近に布陣する会津軍と対峙しました。両軍の戦いの声は鬼面山にこだまし、打ち合う大砲の煙はもうもうと立ちこめて空を覆い、戦いは数時間に及びましたが、夕暮れになっても勝敗は決まらず、両軍は互いに退いて戦いは終わりました。その際に、土湯村が焼き討ちにあった記録も残されています。このように小峠をはじめ、会津藩との間でいくつかの衝突があったものの、仙台藩の心情は会津藩に近く、新政府軍から会津出兵を強要された仙台藩は、事前に会津藩士・一柳四郎左衛門と仙台藩士・瀬上主膳の間で、空砲を撃ち合う不戦協定を結んでいました。ところが新政府軍の筑前藩兵が来てしまい、やむなく実弾を撃ち合うことになりますが、まったく戦う意思のない戦闘でした。このように、実際にこの戦いは両軍の指揮官同士が密議を行い、新政府軍を欺\xA4

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この後、新政府軍の悪逆非道を知った仙台藩は新政府軍と戦う決意をし、奥羽越列藩同盟結成へと舵を切ることとなります。4月20日未明、仙台藩姉歯武之進らが下参謀の世良修蔵を殺害します。仙台藩は奥羽鎮撫総督府軍を撃破して、総督九条道孝ら参謀の身柄を拘束し仙台城下に軟禁します。そして、それに呼応するように会津藩白河城を攻略します。東北の雄藩である会津藩仙台藩薩長の新政府軍との全面戦争が、こうして始まっていきます。つまり、4月から7月にかけての白河口の戦い白河城攻防戦)へと突入していくことになるのです。

○「小峠古戦場」(福島市土湯温泉町)

磐梯吾妻スカイラインから土湯峠に向かう県道沿いに、「小峠古戦場」の看板があります。現地には、説明板に会津戦争の説明が書いてあるだけです。車で走っていると、気がつかずに通り過ぎてしまいそうな感じで、標高1000mくらいのこんなところでも、戊辰戦争の戦いがあったことに驚かされます。この地点は、土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋とぶつかったところであることが推定でき、土湯温泉から土湯峠に向かう古道の道筋は太子堂の所で、太子堂から会津への旧道入口に、旧街道についての説明があります。古道は、太子堂から野地温泉に向かって進みますが、その道筋はほぼ送電線に沿っているようです。その古道が小峠に繋がっていて、ここから野地温泉に向かい、鬼面山の稜線を回り込んで、会津に向かったのだろうと推定できます。小峠の説明板に、次の説明があります。

?会津街道を登りつめ小峠の頂上に立つともう野地温泉は谷一つ挟んで指呼の間に望め、視野を広げると鬼面山の稜線に大峠が望めます。この小峠は、慶応4年(1868)仙台藩を先発とする官軍が陣を構え、大峠に布陣する会津軍と対峙した古戦場で、当時の模様を「‥瀬上主膳を隊長として築州藩50の兵を加えた850の兵を土湯に進め、会津街道小峠六合坂に陣を築いて、大峠の頂上で待ち構える会津藩と戦いを交えた。両軍の戦いの声は鬼面山にこだまし、撃ち合う大砲の煙はもうもうとたちこめて空を覆い、戦いは数時間に及んだが、夕暮れになっても勝敗は決まらず両軍はお互いに退いて、戦いは終わった」と伝えています。この戦いの後、8月2日土湯は兵火にかかり、明治2年4月川俣民生局に対して、「‥普請成兼ネ候故、71軒ニ、1軒分ノ金トシテ、参拾両宛…」として災害救助金物借願いを提出しています。?